AI革命前夜

脳科学

主観とは何か?

主観とは何か?

感じない機械

 例えば、温度計は温度を感じていると言えるだろうか?

 温度を感じているからこそ、温度を指し示すことができるのか?

 否。

 温度計は何も感じていないし何もしていない。ただ温度に反応して中の液体の体積が変化しているだけだ。その体積の変化が温度というパラメータとして可視化できる仕組みになっているだけだ。

 そこに意味を見いだし、感じているのは人間であり、温度計は何も感じていない。

 もちろんデジタル温度計はまた違った仕組みになっているが、大差ない。

 要は、何らかの物体の外部からの刺激に対する反応、またその反応の法則性を利用することで、意味のある出力結果を返す仕組みという意味では、同じようなものだと言える。

 より複雑な機械であるコンピュータでさえ、全く同じだ。入力も出力もより複雑にはなるが、中身は電子がその法則性に則って動いているだけだ。

 どんなに綺麗で高性能なディスプレイでも、単に小さなドット一つ一つにどんな色を表示するか、また、どんなタイミングでそれを表示するかをコントロールされているだけに過ぎない。

 コンピュータは何も感じていない。

 道具や機械は、人間にとって都合よく動くように設計されているだけであって、そこに主観はない。

感じる主体

 一方で、私は温度計とは違い、熱い液体に触れると「熱い」と感じる。

 「感じる」という以外に表現する方法がないほどに、確かに感じる。

 なぜ感じるのか?

 どういう仕組みで感じる主体が在るのか?

 そもそも本当に感じているのだろうか?

 もしかしたら「感じる」というのはただの勘違いで、実は何も感じていないのか?

 いや、それはおかしい。

 もしそうなら、「実は何も感じていないのか?」と感じているのは一体誰なのか?

 これはまさにデカルトの言う「我思う故に我あり」と同じ論理構造だ。

 私は間違いなく、何かを感じることができるように出来ている。

 私が「感じる主体」であることは疑いようがない。

 温度計が温度を指し示すのとは違い、私は主観的に熱さを感じる。

脊髄反射と随意運動

 人間(動物も)は、やけどする程熱いものに触れると咄嗟に手を引くなりして回避しようとする。

 それは「熱い」と感じたからではない。

 それは反射という機能によるもので、反射というのは「熱い」と感じる前に起こる行動であり、感じるかどうかは関係ない。

 反射というのは、その刺激によって発生した電気信号が神経細胞によって伝達され、脊髄に達したところですぐに末梢へと折り返し、その電気信号が然るべき筋肉を収縮させることにより起こる。まさに機械的な反応であり、その程度の機械なら各種センサーと駆動部分さえあれば簡単に作れる。

 一方、その脊髄に達した電気信号がさらに上位へと伝わり、脳内の然るべき領域に伝わることで、「感じる主体」がその刺激を感じるという主観的現象を生む。

 「感じる主体」は熱さを感じた上で、「熱っ!」と言ったり、患部を擦ったり、場合によっては冷やしたりもするだろう。

 こういった熱さを感じてから起こる行動は反射とは呼ばない。いわゆる意志を伴う行動(随意運動)だ。
※ちなみに、思わず反射的に「熱っ」と言ってしまうのは反射ではない。

 しかし考えてみてほしい。

 反射とは脊髄でUターンした電気信号が筋肉へと到達することで起こる運動。

 感じた後に取る行動とは、に届いた電気信号がUターンし筋肉へと到達することで起こる運動。

 しかも脳というのは単に神経細胞が集まっているだけで、その神経細胞1つ1つを見ると、やはりただ電気信号を伝えるだけ機能しか持たない。

 つまり「反射」と「感じた後の行動」は、どのレベルで末梢へと折り返すかが違うだけであって、神経細胞がドミノのように電気信号を伝達しているという意味では本質的には何ら変わりない。

 さらに言うと、温度計の中の液体が膨張するのも、神経細胞内を電気信号が駆け巡るのも、客観的に見れば単なる物理現象であり、大きな差はない。

 にも関わらず、脳の神経細胞がスパークすることで、そこに「主観」が生まれ、「感じる」という摩訶不思議な現象が生まれる。

複雑かつ統合的な脳

 神経細胞1つ1つの反応は単なる電気的な物理現象であるとは言え、やはり脳は他に類を見ない特別な構造をしている。

 脳の神経細胞の特別性はそのつながりの複雑さにある。

 末梢神経からスタートした電気信号のドミノはほぼ一本道で中枢へ向かって進み、脳に到達した途端、取りうるコースのバリエーションは驚くべき複雑さになる。

 脳は約1000億個の神経細胞の塊であり、その接続部分は兆にも及ぶという。

 とても目で追える量の複雑さではない。

 もちろん、ただやみくもに複雑なだけではなく、その複雑に絡み合った神経細胞は組織的・統合的に動作するように配置されている。

 果たして「主観」を生む為に必要十分な複雑さ・統合性とはいかなるものなのか?

 1つ言えるのは、脳の神経回路網ほどに複雑かつ統合的な構造を持つ物体は、脳以外にはおそらく無いし、現状では作れない。

 そんな複雑怪奇な構造物を自然発生的に創り出せたことほどの神秘性は他にないだろう。

感じることで生まれる主観

 脳内に「感じる主体」が存在し、そこに末梢からの電気信号が到達することで何かを感じる。

 というのはおそらく間違っている。脳内にホムンクルスは居ない。

 末梢からやってきた神経細胞の電気信号を複雑かつ統合的に伝達しあうことそのものが、「感じる」という摩訶不思議な主観的現象を生み出す。

 「感じる主体」があるから感じるのではない。

 「感じる」という現象に付随する形で、「感じる主体」は生まれる。

 私が感じているのではない。感じているから私が生まれる。

 何かを感じ続けている記憶が「私」を創る。

  • 「主観」には体積もなく、質量もなく、熱量もありません。
    つまり物質ではありません。
    いっぽう電気信号とは物理的な現象です。
    それがいくら複雑に絡み合い混ざり合って統合だれても
    「主観」という非物理的なものに変身することはありません。
    では「主観」とはどこから来たのか?
    それはあの世から来て肉体に宿り、肉体が消滅したときあの世に帰ります。
    つまり昔の人が言うところの「魂」のことです。

    by ひとっP 2018年12月30日 11:20 PM

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